2007年09月16日
近衛文麿
こんばんは!連日めちゃくちゃ暑いですね~!
今日は、秋の葛飾区長杯男子ダブルス大会に参加してきました。
春の前回同様、ペアを組んでもらったのはご夫婦でイラン旅行
帰りのTさんです。
エントリー8時半なのに私が7時半すぎに会場に着いてしまい、
「いくらなんでもちょっと早すぎたかなー?!」とコートに
入ってみると・・、すでにTさんがバナナの大房とともに
ベンチにいるではないですか!!ビックリしました~やる気まんまん
ですね!彼曰く「何でも一番は良いことだー!!」前向きですね・・。
試合の方は、1回戦で20代と思われる兄弟ペアに6-1で快勝!
次の2回戦はまたまた第一シードペアに当たってしまい、1-6で
返り血を浴びました。。相手は初戦なこともあって体が温まっていない
せいか、序盤ミスも多く予想よりポイントが取れたのですが、
やはり私のリターンミスなどで失点を重ね、完敗でした。
無駄なミスが本当にもったいないことと、気持ちで守らないで
攻め続けることが大事だなと思いました。ペアのTさん、またまた
バナナも食べずに昼前で終わってしまいましたが、次回もぜひ
よろしくお願いしま~す!!
さて今日午後は映画に行く予定でしたが、妻も私も先週バタバタして
いて疲れていたので今日は、家でのんびりすることに決めました。
そこで昨日、予約がようやく入荷した「近衛文麿 黙して死す」
を読みました。戦前には非戦にあらゆる努力を重ねて主に陸軍から
「軟弱者」「売国奴」と罵られ、戦中は講和条件の調整の機会を
得るべく東奔西走した近衛公が、いかに戦後米国の左派から東條英機
元首相と並ぶ最大の戦争責任をなすりつけられたかが、克明に描かれて
います。国体を護りつつ、昭和天皇に危害が及ぶのを恐れた公が、遂に
服毒による自死を選ぶ前夜に残した文章が全てを物語っています。
「僕は支那事変以来多くの政治的過誤を犯した。之に対し深く責任を
感じて居るが、所謂戦争犯罪人として、米国の法廷に於いて裁判を
受けることは、堪え難いことである。殊に僕は、支那事変に責任を
感ずればこそ、この事変解決を最大の使命とした。そして、この
解決の唯一の途は米国との諒解にありとの結論に達し、日米交渉に
全力を尽くしたのである。その米国から今、犯罪人として指名を受ける
ことは、誠に残念に思う。
しかし、僕の志は知る人ぞ知る。僕は米国に於いてさえ、そこに多少の
知己が存することを確信する。戦争に伴う昂奮と、激情と、勝てる者の
行き過ぎた増長と、敗れた者の過度の卑屈と、故意の中傷と誤解に基づく
流言蜚語と是等一切の与論なるものも、いつかは冷静さを取り戻し、正常に
復する時も来よう。
其時始めて、神の法廷に於いて正義の判決が下されよう」
かれは自分に科した「黙」を守りとおした。その数時間あとに近衛文麿は
自らの命を絶った。五十四歳の生涯だった。
鳥居 民著「近衛文麿 黙して死す」草思社刊
明らかに事後法であり、なおかつ罪刑法定主義の観点からも法としての
形式を全く満たさない東京裁判のインチキさ加減や、たった七日間で
米国の若手共産主義学者が作成した日本国憲法の非合理についても、
私たちはそろそろ『冷静さを取り戻し、正常に復する時』ではないで
しょうか。いつか『神の法廷に於いて正義の判決』が下されるとき、
ようやく近衛公の志は、内外多くの人の理解と共感を得て、有史以来
2600年を超える日本の歴史に燦然と刻み込まれるのだろうと思いました。
ではまた、おやすみなさいzz...
今日は、秋の葛飾区長杯男子ダブルス大会に参加してきました。
春の前回同様、ペアを組んでもらったのはご夫婦でイラン旅行
帰りのTさんです。
エントリー8時半なのに私が7時半すぎに会場に着いてしまい、
「いくらなんでもちょっと早すぎたかなー?!」とコートに
入ってみると・・、すでにTさんがバナナの大房とともに
ベンチにいるではないですか!!ビックリしました~やる気まんまん
ですね!彼曰く「何でも一番は良いことだー!!」前向きですね・・。
試合の方は、1回戦で20代と思われる兄弟ペアに6-1で快勝!
次の2回戦はまたまた第一シードペアに当たってしまい、1-6で
返り血を浴びました。。相手は初戦なこともあって体が温まっていない
せいか、序盤ミスも多く予想よりポイントが取れたのですが、
やはり私のリターンミスなどで失点を重ね、完敗でした。
無駄なミスが本当にもったいないことと、気持ちで守らないで
攻め続けることが大事だなと思いました。ペアのTさん、またまた
バナナも食べずに昼前で終わってしまいましたが、次回もぜひ
よろしくお願いしま~す!!
さて今日午後は映画に行く予定でしたが、妻も私も先週バタバタして
いて疲れていたので今日は、家でのんびりすることに決めました。
そこで昨日、予約がようやく入荷した「近衛文麿 黙して死す」
を読みました。戦前には非戦にあらゆる努力を重ねて主に陸軍から
「軟弱者」「売国奴」と罵られ、戦中は講和条件の調整の機会を
得るべく東奔西走した近衛公が、いかに戦後米国の左派から東條英機
元首相と並ぶ最大の戦争責任をなすりつけられたかが、克明に描かれて
います。国体を護りつつ、昭和天皇に危害が及ぶのを恐れた公が、遂に
服毒による自死を選ぶ前夜に残した文章が全てを物語っています。
「僕は支那事変以来多くの政治的過誤を犯した。之に対し深く責任を
感じて居るが、所謂戦争犯罪人として、米国の法廷に於いて裁判を
受けることは、堪え難いことである。殊に僕は、支那事変に責任を
感ずればこそ、この事変解決を最大の使命とした。そして、この
解決の唯一の途は米国との諒解にありとの結論に達し、日米交渉に
全力を尽くしたのである。その米国から今、犯罪人として指名を受ける
ことは、誠に残念に思う。
しかし、僕の志は知る人ぞ知る。僕は米国に於いてさえ、そこに多少の
知己が存することを確信する。戦争に伴う昂奮と、激情と、勝てる者の
行き過ぎた増長と、敗れた者の過度の卑屈と、故意の中傷と誤解に基づく
流言蜚語と是等一切の与論なるものも、いつかは冷静さを取り戻し、正常に
復する時も来よう。
其時始めて、神の法廷に於いて正義の判決が下されよう」
かれは自分に科した「黙」を守りとおした。その数時間あとに近衛文麿は
自らの命を絶った。五十四歳の生涯だった。
鳥居 民著「近衛文麿 黙して死す」草思社刊
明らかに事後法であり、なおかつ罪刑法定主義の観点からも法としての
形式を全く満たさない東京裁判のインチキさ加減や、たった七日間で
米国の若手共産主義学者が作成した日本国憲法の非合理についても、
私たちはそろそろ『冷静さを取り戻し、正常に復する時』ではないで
しょうか。いつか『神の法廷に於いて正義の判決』が下されるとき、
ようやく近衛公の志は、内外多くの人の理解と共感を得て、有史以来
2600年を超える日本の歴史に燦然と刻み込まれるのだろうと思いました。
ではまた、おやすみなさいzz...
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