2008年04月12日
十牛図
こんばんは。
今日はとても暖かく穏やかな週末の休日になりましたね~!
テニス仲間のTさんも、朝のサークル練習で「あんなに平日は
天気悪かったのに、ほんとにツイてるよね!」と終始ご機嫌な様子
でした。そのあと昼前に家に戻り、家の外周をはき掃除。
前がバス通りなので砂ぼこりがたくさんたまるのと、隣の神社の
大木の枝や芽がいっぱい落ちて吹き込んでくるので1週間でも
レジ袋1杯分ほどになるんですよ。キレイになると気持ち良いし、
裏の公園に行き来する子供たちが自転車を止めてこちらを
じーっと観察していて目が合ったりして、なかなか楽しいものです。
普段みかけない変なおじさんが掃除してるよ~~、くらいなところ
ですかね。。
また洗濯も天気が良いと気分よいですしね。私たちの日常生活は
その95%以上が瑣事の繰り返しだ、という文章を読んだことが
あります。顔を洗う、鬚をそる、歯を磨く、食事を準備し食べる、
風呂に入る、掃除をする・・。そんないわばとても地味な毎日が
ずっと続くわけですが、単に億劫だ、面倒だと済ませずに、
ちょっとずつ工夫してささやかな喜びを見つけ、また気の合う
友人たちと話したり励まし合って、これからも楽しく過ごして
いきたいものですね。
さて明日は「第23回焼津みなとマラソン」に行ってきます。
1月以来のハーフマラソンなので、第一の目標としてはケガなく完走、
その次に自己ベスト記録1時間50分台をできれば目指したいと
思っています。週間天気予報では、一時雨のマークも出てましたが
今現在では「くもり、降水確率20%」となっていますから、
まあ強い雨にはならないはず・・。朝6時半の新幹線で向かいますので、
早めに準備して寝ないと・・。また明日ご報告しますね!!
で今週読んで面白かった本ですが、禅のこころを学ぶための入門図
として、古くから多くの人に親しまれてきた『十牛図』というものを説明した
新書をご紹介したいと思います。これは「牧人(まきと・悟りを求める者)」
が、逃げ出した「牛(真の自己)」を探し出す過程で、いかに生くべきかを
十の図で表したものといわれています。
「自分が変われば世界が変わる。あなたの人生はあなたの気の持ちよう
次第」という仏教の唯識論を簡単に説明してくれる本で、学生時代
以来、久しぶりに大乗仏教を学び、やはりたくさんの示唆に富んで
いました。なかでも、幸せについて考えたくだりが心に響いたので、
ちょっと抜粋しますね。
「若者たちに、どのようなときに幸せを感じるか、と尋ねると、
『好きな音楽を聴いているとき』『スポーツをしているとき』
『友人たちと語り合っているとき』などと答えます。
もちろんこれらは幸福感であるといってもよいでしょう。しかし、
このような幸せには、必ず幸せと感じる『自分』が存在します。
しかし、すでに、幾度も確認してきましたが、そのような『自分』
は思い込まれた自分であり、実体として存在するものではありません。
そのような『自分』を消し去ったとき、どのような幸福が顕れて
くるでしょうか。
また、あの『雨ニモマケズ』の詩にもどってみましょう。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ
夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ怒ラズ
イツモシヅカニワラツテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
(中略)
サウイウモノニ
ワタシハナリタイ
この中の『アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニイレズニ
ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ』という箇所を読むたびに、
私はもう涙が出るほどに感動を覚えます。
すべてのことに対して、自分を勘定に入れずに見聞覚知する。
もしこれができたら、これもまた素晴らしい理想的な生き方です。
しかし、私たちの現実の生活は、これとはまったく逆です。
例えば絵画展を見に行く。このピカソの絵は私にはわからない、
むしろセザンヌの絵の方が私は好きだ、と言う。
また、相手からなにか非難めいたことを言われると、むかっと怒る。
・・このように、なにを見ても聞いても、そこに『自分』という
いわば反響板がはたらいているのです。だから、そのような
『自分』を中心とした世界に生きる限り、決して真の幸福は
ありえないのではないでしょうか。」
横山紘一「十牛図入門」幻冬舎新書
この文章に触れたとき、すぐに「己のために計らわず」という
先日たまたま知った言葉を思い出しました。
これは、戦勝国が何の根拠も無く実行した東京裁判のうえで
いわゆるA級戦犯とされた広田弘毅元首相の言葉です。
外相のちに首相としても戦容の拡大防止に終始一貫務めたものの
文官では唯一死刑判決を与えられてしまいました。しかし軍部など
他に責任を擦りつけることなく一切の弁解もせず、生死を決する
究極の状況にあってもとことん『自分』を消し去った元首は判決の
のち、獄中でこんな言葉も残しています。
「すべては無に帰して、言うべきことは言ってつとめを果たす
という意味で自分は来たから、今更何も言うことはない。
自然に生きて自然に死ぬ。」
「法に触れなければいい」、または「ごく近い人だけに迷惑を
かけなければ何をやってもかまわない」・・などと考えて育ち
育てた人々が今の時代には少なくないとも思いますが、
自分を消しさって勘定に入れずに一歩も二歩も退き譲る潔さを
身に付けられれば、真の安らぎや幸福に近づけるのではないのかな、
と思いました。
今日はとても暖かく穏やかな週末の休日になりましたね~!
テニス仲間のTさんも、朝のサークル練習で「あんなに平日は
天気悪かったのに、ほんとにツイてるよね!」と終始ご機嫌な様子
でした。そのあと昼前に家に戻り、家の外周をはき掃除。
前がバス通りなので砂ぼこりがたくさんたまるのと、隣の神社の
大木の枝や芽がいっぱい落ちて吹き込んでくるので1週間でも
レジ袋1杯分ほどになるんですよ。キレイになると気持ち良いし、
裏の公園に行き来する子供たちが自転車を止めてこちらを
じーっと観察していて目が合ったりして、なかなか楽しいものです。
普段みかけない変なおじさんが掃除してるよ~~、くらいなところ
ですかね。。
また洗濯も天気が良いと気分よいですしね。私たちの日常生活は
その95%以上が瑣事の繰り返しだ、という文章を読んだことが
あります。顔を洗う、鬚をそる、歯を磨く、食事を準備し食べる、
風呂に入る、掃除をする・・。そんないわばとても地味な毎日が
ずっと続くわけですが、単に億劫だ、面倒だと済ませずに、
ちょっとずつ工夫してささやかな喜びを見つけ、また気の合う
友人たちと話したり励まし合って、これからも楽しく過ごして
いきたいものですね。
さて明日は「第23回焼津みなとマラソン」に行ってきます。
1月以来のハーフマラソンなので、第一の目標としてはケガなく完走、
その次に自己ベスト記録1時間50分台をできれば目指したいと
思っています。週間天気予報では、一時雨のマークも出てましたが
今現在では「くもり、降水確率20%」となっていますから、
まあ強い雨にはならないはず・・。朝6時半の新幹線で向かいますので、
早めに準備して寝ないと・・。また明日ご報告しますね!!
で今週読んで面白かった本ですが、禅のこころを学ぶための入門図
として、古くから多くの人に親しまれてきた『十牛図』というものを説明した
新書をご紹介したいと思います。これは「牧人(まきと・悟りを求める者)」
が、逃げ出した「牛(真の自己)」を探し出す過程で、いかに生くべきかを
十の図で表したものといわれています。
「自分が変われば世界が変わる。あなたの人生はあなたの気の持ちよう
次第」という仏教の唯識論を簡単に説明してくれる本で、学生時代
以来、久しぶりに大乗仏教を学び、やはりたくさんの示唆に富んで
いました。なかでも、幸せについて考えたくだりが心に響いたので、
ちょっと抜粋しますね。
「若者たちに、どのようなときに幸せを感じるか、と尋ねると、
『好きな音楽を聴いているとき』『スポーツをしているとき』
『友人たちと語り合っているとき』などと答えます。
もちろんこれらは幸福感であるといってもよいでしょう。しかし、
このような幸せには、必ず幸せと感じる『自分』が存在します。
しかし、すでに、幾度も確認してきましたが、そのような『自分』
は思い込まれた自分であり、実体として存在するものではありません。
そのような『自分』を消し去ったとき、どのような幸福が顕れて
くるでしょうか。
また、あの『雨ニモマケズ』の詩にもどってみましょう。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ
夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ怒ラズ
イツモシヅカニワラツテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
(中略)
サウイウモノニ
ワタシハナリタイ
この中の『アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニイレズニ
ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ』という箇所を読むたびに、
私はもう涙が出るほどに感動を覚えます。
すべてのことに対して、自分を勘定に入れずに見聞覚知する。
もしこれができたら、これもまた素晴らしい理想的な生き方です。
しかし、私たちの現実の生活は、これとはまったく逆です。
例えば絵画展を見に行く。このピカソの絵は私にはわからない、
むしろセザンヌの絵の方が私は好きだ、と言う。
また、相手からなにか非難めいたことを言われると、むかっと怒る。
・・このように、なにを見ても聞いても、そこに『自分』という
いわば反響板がはたらいているのです。だから、そのような
『自分』を中心とした世界に生きる限り、決して真の幸福は
ありえないのではないでしょうか。」
横山紘一「十牛図入門」幻冬舎新書
この文章に触れたとき、すぐに「己のために計らわず」という
先日たまたま知った言葉を思い出しました。
これは、戦勝国が何の根拠も無く実行した東京裁判のうえで
いわゆるA級戦犯とされた広田弘毅元首相の言葉です。
外相のちに首相としても戦容の拡大防止に終始一貫務めたものの
文官では唯一死刑判決を与えられてしまいました。しかし軍部など
他に責任を擦りつけることなく一切の弁解もせず、生死を決する
究極の状況にあってもとことん『自分』を消し去った元首は判決の
のち、獄中でこんな言葉も残しています。
「すべては無に帰して、言うべきことは言ってつとめを果たす
という意味で自分は来たから、今更何も言うことはない。
自然に生きて自然に死ぬ。」
「法に触れなければいい」、または「ごく近い人だけに迷惑を
かけなければ何をやってもかまわない」・・などと考えて育ち
育てた人々が今の時代には少なくないとも思いますが、
自分を消しさって勘定に入れずに一歩も二歩も退き譲る潔さを
身に付けられれば、真の安らぎや幸福に近づけるのではないのかな、
と思いました。
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