2008年03月05日
タマを呑む
こんばんは。今日も穏やかで過ごしやすいお天気でしたね、
外を歩いているとマフラーをした首元が暑いくらい。
しかし寒さが緩んでくると、気持ちも少し和んできますね。
そういえば今年の桜、気になりますが東京では27日に
開花の予定だそうです。久しぶりに花見なんかもいいですよね~。
古えの言い伝えによると、月夜に酌み交わす盃の表面にぽっかり
浮かぶ月光には、「タマ」といわれる神の「たましい」が宿っていて、
それを呑み干すことによって自分の体内にその「タマ」を取り込み
英気を養うのだそうです。これはどうやら、ただ飲みたい人による
言い訳ではなさそうな感じですね。。
さて先日パール博士の著書「平和の宣言」を読みました。
総勢11人からなる東京裁判の判事の中で唯一、被告人全員無罪と
いう正当な判決を下したパールさんが、1952年再び日本の地を
踏んで多くの講演を重ね、縁のある人々を訪ねられた際の教えや
お言葉を集めた本なのですが、特に新宿中村屋の創立者である
相馬愛蔵・黒光夫妻を調布の庵に訪ねた箇所が圧巻でした。
夏ごろブログにて少しご紹介しましたがインドの独立革命運動の
先駆者で日本に潜伏し活動していたラスビハリ・ボースさんを
命を賭けてかくまったのがこの相馬夫妻で、その御礼をする箇所です。
「『どんなにボースは地下でよろこんでいることでしょう』
そういう黒光女史にたいして、博士は、
『わたくしはあなたに逢えてうれしい。あなたはインドの母です。
日本へ来てわたくしは誰よりもあなたにお逢いしたかった』
博士は、黒光女史の手を両手でしっかりと握りしめて、
その手をいただくようにしながら、
『天涯にたよる者とてないインドの亡命青年を、かくまって
下さったのみか、あたたかい家庭までもお与えくださったあなた方に、
わたくしは全インド人にかわってお礼申し上げます』
襖をあけて隣の部屋でじっと聞いている愛蔵氏に向かって、
『わたくしは同志ボースの立派なお墓におまいりし、そしていま
ここに来てみて、生前ボース氏が、どんなに深い愛情と理解とを
もって、みなさんに庇護されてきたかを、まざまざと知ることが
できました。こんなにいいお嬢さんもあり、お孫さんもあって、
どんなに幸福な生涯だったことでしょう、ありがとうございました』
博士はわがことのごとく頭を下げている。黒光女史はそれをさえぎるように、
『いえ、とんでもないことです。わたくしたちはむしろボースにいろいろ
教わりました。天下がどうの、国家がどうのと、そんなことはなんにも
知らない一商人でしたが、ひとつには頭山(満)さんとか内田(良平)さん
のようなりっぱな方々のご依頼もあり、ひとつにはボースがいかにも
しっかりした凛々しい人物なので、それに惚れてかくまっただけなんですよ。
しかしその時は、ほんとうにわたしども夫婦は、いつうしろ手になっても
かまわぬ、首が飛んでもかまわぬという覚悟をしました。ガタッという
風の音にも警察ではないか、イギリス人ではないかと、寝ないでいる晩も
幾夜あったことでしょう。だがボースをかくまって以後というものは、
新聞の政治面を気をつけてみるようになり、政治や革命や外交や国際問題に
ついて関心を寄せるようになりました。いまこうしてどうやら国外に
対する眼がひらけたのは、ボースのおかげだと思っています。
それよりもあなた様が、連合国を向うにまわして、いろいろな迫害を
しりぞけて、ひとり(被告全員の)無罪をとなえられたということの
方が、どんなに勇気と決意を要したことかと、わたくしはあの裁判の
日からきょうまで、ほんとうにあなたに手をあわせて感謝してきました。
どうしてインドには、ガンジーとかネールとか、チャンドラ・ボースとか、
パール博士とか、世界のどの国にもいないような高いすぐれた精神の
人たちが出るのでしょうね、わたくしはボースをつうじてそうした
インドの高い魂にふれたような気がし、心からありがたく思って、
むしろ感謝でいっぱいなんですよ』
この話をきいた博士は、
『とんでもないことです。わたくしはただ裁判官としての、当然の義務を
はたしただけです。なんにも感謝されるようなりっぱなことをした
わけではありません。あなたの義侠と勇気と決意にくらべれば月と星
です。ボース氏が亡命した1910年代といえば、イギリスの全盛期
です。外交においてもイギリスの思うこと成らざるはなし、という
時代でした。この世界的な権力をむこうにまわして、しかも法律に
そむき、政府にまで反抗して亡命青年をかくまい、自分の娘を
めとらせて温かい家庭まで与えてくださった。これはたいへんなことです。
このことは日本とインドの歴史に永久に忘れてはならない記憶です。
インドの独立史をひもとく青年たちは、このひとつの事件だけで、
日本に対し限りない感謝と親愛の気持をもつでしょう。実は、わたくしも
このことを知ったとき、ますます日本が好きになり、日本とインドは
離れがたいものだということを感じました』」
ラダビノード・パール著「パール博士『平和の宣言』」小学館
伝統、文化、技術、資本、それに人々も自然も・・、優秀な先輩方が
遺してくれた多大なご努力のおかげで日本は、依然としてどの分野に
おいても世界最高水準の国であろうと思います。
しかし問題は戦後、矜持も自信も完全に失ってしまったひとり一人の
「こころ」だけ・・。
だとすれば、この恩人パール博士が私たちのために勇気をもって一矢報いて
くれた正義の剣を、何としても微力でも守りきらなければと思うのです。
そのためにはまず、歴史や政治についてよく勉強し、客観的で正確な知識を
身につけて地道に考え続けるしかないのではないか、と思っています。
ではまた、おやすみなさいzz...
外を歩いているとマフラーをした首元が暑いくらい。
しかし寒さが緩んでくると、気持ちも少し和んできますね。
そういえば今年の桜、気になりますが東京では27日に
開花の予定だそうです。久しぶりに花見なんかもいいですよね~。
古えの言い伝えによると、月夜に酌み交わす盃の表面にぽっかり
浮かぶ月光には、「タマ」といわれる神の「たましい」が宿っていて、
それを呑み干すことによって自分の体内にその「タマ」を取り込み
英気を養うのだそうです。これはどうやら、ただ飲みたい人による
言い訳ではなさそうな感じですね。。
さて先日パール博士の著書「平和の宣言」を読みました。
総勢11人からなる東京裁判の判事の中で唯一、被告人全員無罪と
いう正当な判決を下したパールさんが、1952年再び日本の地を
踏んで多くの講演を重ね、縁のある人々を訪ねられた際の教えや
お言葉を集めた本なのですが、特に新宿中村屋の創立者である
相馬愛蔵・黒光夫妻を調布の庵に訪ねた箇所が圧巻でした。
夏ごろブログにて少しご紹介しましたがインドの独立革命運動の
先駆者で日本に潜伏し活動していたラスビハリ・ボースさんを
命を賭けてかくまったのがこの相馬夫妻で、その御礼をする箇所です。
「『どんなにボースは地下でよろこんでいることでしょう』
そういう黒光女史にたいして、博士は、
『わたくしはあなたに逢えてうれしい。あなたはインドの母です。
日本へ来てわたくしは誰よりもあなたにお逢いしたかった』
博士は、黒光女史の手を両手でしっかりと握りしめて、
その手をいただくようにしながら、
『天涯にたよる者とてないインドの亡命青年を、かくまって
下さったのみか、あたたかい家庭までもお与えくださったあなた方に、
わたくしは全インド人にかわってお礼申し上げます』
襖をあけて隣の部屋でじっと聞いている愛蔵氏に向かって、
『わたくしは同志ボースの立派なお墓におまいりし、そしていま
ここに来てみて、生前ボース氏が、どんなに深い愛情と理解とを
もって、みなさんに庇護されてきたかを、まざまざと知ることが
できました。こんなにいいお嬢さんもあり、お孫さんもあって、
どんなに幸福な生涯だったことでしょう、ありがとうございました』
博士はわがことのごとく頭を下げている。黒光女史はそれをさえぎるように、
『いえ、とんでもないことです。わたくしたちはむしろボースにいろいろ
教わりました。天下がどうの、国家がどうのと、そんなことはなんにも
知らない一商人でしたが、ひとつには頭山(満)さんとか内田(良平)さん
のようなりっぱな方々のご依頼もあり、ひとつにはボースがいかにも
しっかりした凛々しい人物なので、それに惚れてかくまっただけなんですよ。
しかしその時は、ほんとうにわたしども夫婦は、いつうしろ手になっても
かまわぬ、首が飛んでもかまわぬという覚悟をしました。ガタッという
風の音にも警察ではないか、イギリス人ではないかと、寝ないでいる晩も
幾夜あったことでしょう。だがボースをかくまって以後というものは、
新聞の政治面を気をつけてみるようになり、政治や革命や外交や国際問題に
ついて関心を寄せるようになりました。いまこうしてどうやら国外に
対する眼がひらけたのは、ボースのおかげだと思っています。
それよりもあなた様が、連合国を向うにまわして、いろいろな迫害を
しりぞけて、ひとり(被告全員の)無罪をとなえられたということの
方が、どんなに勇気と決意を要したことかと、わたくしはあの裁判の
日からきょうまで、ほんとうにあなたに手をあわせて感謝してきました。
どうしてインドには、ガンジーとかネールとか、チャンドラ・ボースとか、
パール博士とか、世界のどの国にもいないような高いすぐれた精神の
人たちが出るのでしょうね、わたくしはボースをつうじてそうした
インドの高い魂にふれたような気がし、心からありがたく思って、
むしろ感謝でいっぱいなんですよ』
この話をきいた博士は、
『とんでもないことです。わたくしはただ裁判官としての、当然の義務を
はたしただけです。なんにも感謝されるようなりっぱなことをした
わけではありません。あなたの義侠と勇気と決意にくらべれば月と星
です。ボース氏が亡命した1910年代といえば、イギリスの全盛期
です。外交においてもイギリスの思うこと成らざるはなし、という
時代でした。この世界的な権力をむこうにまわして、しかも法律に
そむき、政府にまで反抗して亡命青年をかくまい、自分の娘を
めとらせて温かい家庭まで与えてくださった。これはたいへんなことです。
このことは日本とインドの歴史に永久に忘れてはならない記憶です。
インドの独立史をひもとく青年たちは、このひとつの事件だけで、
日本に対し限りない感謝と親愛の気持をもつでしょう。実は、わたくしも
このことを知ったとき、ますます日本が好きになり、日本とインドは
離れがたいものだということを感じました』」
ラダビノード・パール著「パール博士『平和の宣言』」小学館
伝統、文化、技術、資本、それに人々も自然も・・、優秀な先輩方が
遺してくれた多大なご努力のおかげで日本は、依然としてどの分野に
おいても世界最高水準の国であろうと思います。
しかし問題は戦後、矜持も自信も完全に失ってしまったひとり一人の
「こころ」だけ・・。
だとすれば、この恩人パール博士が私たちのために勇気をもって一矢報いて
くれた正義の剣を、何としても微力でも守りきらなければと思うのです。
そのためにはまず、歴史や政治についてよく勉強し、客観的で正確な知識を
身につけて地道に考え続けるしかないのではないか、と思っています。
ではまた、おやすみなさいzz...