2008年10月23日
無意味
こんばんは。最近はお天気も穏やかで過ごしやすいですね。
しかし先週末から不覚にも私、とうとう風邪(!)をひいて
しまいました。金曜日の朝、岩手へ出張の日だったのですが、
ノドが痛いな~と思っていたら、今度は鼻が止まらなくなってきて、
日曜は熱もやや出たりして散々でした。。
そのせいで、日曜に予定していた10Kレースは残念ながら休み、
一日家でゆっくりしていましたが、やっぱり退屈ですね。
土曜の朝、盛岡市内にある城址公園から北上川沿いをジョグ
したっきりで、まる5日も走っていません。次の日曜は前から
楽しみにしていた柏市の手賀沼エコマラソンなのですが、
大丈夫かな。まあ熱はだいだいおさまったので、一応金曜10K
くらい走ってみて、呼吸がOKなら出場しようかなと考えて
います。まあ本番は来月のフルなので、ムリはせず。
カゼは2年に一度ひくかどうかなのですが、いつもなかなか
治らないんで、じっくり構えようと思います。
そうそう、先週金曜夜は盛岡に泊まったのですが、初!盛岡冷麺を
頂きました~もう想像以上に美味!!ダシもきいていてコクが
あるのにあっさりと、辛味もキムチの酸味と相まってまろやか、
そして何よりもコシが強くて喉ごしもつるっと小気味よい中太麺が
とにかく最高なのです。メン類はどれも好きですが、目下の麺
ランキングではダントツNO1になりました。今回同行してくれた
Dさんも「また食べたいね~」と、(一通り焼き肉を食べたあと
でしたが)スープまで完食されてたいへん満足なご様子でした。
帰り際、土曜の昼には宮沢賢治も常連だったそうな歴史ある
ソバ屋さんで「わんこそば」にも初挑戦しました。なま温かい
ツユがかかった一口分のソバを、給仕のおばさんが私の器に
リズミカルに放り込んできます。少しでも食べる手が止まると、
なぜか無言のプレッシャーがある感じで、小心者の私はやや気持ちが
焦ります。店頭には70才のおじいさんがなんと「100杯達成!」
とありましたが、テニス侍翁は30杯ですぐに断念・・。
とにかくカゼもお土産にしてしまいましたが、仕事も無事順調に
終わり、Dさんとも長い時間いろいろ話せて、とても楽しい
岩手出張でした。
さて先週読んで面白かった本からちょっとご紹介しますね。
朝日新書の新刊で、鳥取県でがんなどの末期患者のホスピス
「野の花診療所」を開設されている徳永進医師と詩人谷川俊太郎
さんが、臨床の現場で徳永先生が携わる様々な死のあり方をめぐり、
ご両人が2年間に渡って受け答えた往復メールを集めた
「詩と死をむすぶもの」です。
私は特に徳永先生が日常的に臨床で体験する、逝く人と看取る人の
間で交わされるやり取りをもとに「『意味』っていったい何ですか?」
と尋ね、谷川さんがその問いに応答するくだりに最も目を惹かれました。
「『ノンセンスは生きることの手触りを教える』と鶴見俊輔さんは
おっしゃいました。ビッグバンに始まったとされる世界は、
人間が発生するまではただ存在するだけで、その存在に意味は
ありませんでした。その後発生した植物も動物も虫も魚も
世界を意味づけようとはしませんでしたが、人間だけが
どうしたことか、世界にそして自分たちに意味を見出そうとし
始めたのです。人間だけに発達した複雑な脳のおかげで、そこから
生まれた言葉のおかげで・・・と要約してしまっていいのかなあ?
ともあれ無意味はそういう人間以前の、言葉が発明される以前の
世界に、つかの間私たちの感性を開いてくれるのではないでしょうか。
それを鶴見さんは手触りと言ったのだと思います。手触り、すなわち
頭脳というより身体で、アタマだけの知性というよりカラダ
ぐるみの感性でとらえる世界。そこには言語ではとらえきることの
できない世界がひろがっています。意味以前に存在しているものの
リアリティに無意味は触れるのです。その、意味以前に存在
しているものが今も基本的にこの世界を形成しているとぼくは
考えます。言葉は、意味は人間を世界に開きそこに秩序を与えてくれる
ものですが、ときにはそれは人間を閉じ込めるものにもなり得ます。
ほんとうに深い、切実な人間関係もときに意味を超えて人と人を
むすぶのではないでしょうか。そこにひそむ泣き笑いのような
ユーモアもまたこの世界の大切な手触りで、それは無意味である
からこそ、意味が届かないあの世の入り口になるかもしれません。」
谷川俊太郎・徳永進「詩と死をむすぶもの」朝日新書
信じる人を求め、言葉にならない祈るような思い、けれど声を聴きたい、
少しでも近づき温もりを感じ伝えたい、というもどかしい気持ちもまた、
意味の次元をはるか超えた「生の手触り」なのだ、と思いました。
あと最後に谷川さんがむかし著した「死」をテーマにした詩も
掲載されていました。しみじみしますね。
一瞬は熟れきったとき
永遠となる
言葉は熟れきったとき
沈黙する
果実は熟れきったとき
地に帰る
死を
熟れきった生として
とらえること
さて早くカゼを治して再び走りたいですが、明日はどうかな?!
それでは、おやすみなさいzz...
しかし先週末から不覚にも私、とうとう風邪(!)をひいて
しまいました。金曜日の朝、岩手へ出張の日だったのですが、
ノドが痛いな~と思っていたら、今度は鼻が止まらなくなってきて、
日曜は熱もやや出たりして散々でした。。
そのせいで、日曜に予定していた10Kレースは残念ながら休み、
一日家でゆっくりしていましたが、やっぱり退屈ですね。
土曜の朝、盛岡市内にある城址公園から北上川沿いをジョグ
したっきりで、まる5日も走っていません。次の日曜は前から
楽しみにしていた柏市の手賀沼エコマラソンなのですが、
大丈夫かな。まあ熱はだいだいおさまったので、一応金曜10K
くらい走ってみて、呼吸がOKなら出場しようかなと考えて
います。まあ本番は来月のフルなので、ムリはせず。
カゼは2年に一度ひくかどうかなのですが、いつもなかなか
治らないんで、じっくり構えようと思います。
そうそう、先週金曜夜は盛岡に泊まったのですが、初!盛岡冷麺を
頂きました~もう想像以上に美味!!ダシもきいていてコクが
あるのにあっさりと、辛味もキムチの酸味と相まってまろやか、
そして何よりもコシが強くて喉ごしもつるっと小気味よい中太麺が
とにかく最高なのです。メン類はどれも好きですが、目下の麺
ランキングではダントツNO1になりました。今回同行してくれた
Dさんも「また食べたいね~」と、(一通り焼き肉を食べたあと
でしたが)スープまで完食されてたいへん満足なご様子でした。
帰り際、土曜の昼には宮沢賢治も常連だったそうな歴史ある
ソバ屋さんで「わんこそば」にも初挑戦しました。なま温かい
ツユがかかった一口分のソバを、給仕のおばさんが私の器に
リズミカルに放り込んできます。少しでも食べる手が止まると、
なぜか無言のプレッシャーがある感じで、小心者の私はやや気持ちが
焦ります。店頭には70才のおじいさんがなんと「100杯達成!」
とありましたが、テニス侍翁は30杯ですぐに断念・・。
とにかくカゼもお土産にしてしまいましたが、仕事も無事順調に
終わり、Dさんとも長い時間いろいろ話せて、とても楽しい
岩手出張でした。
さて先週読んで面白かった本からちょっとご紹介しますね。
朝日新書の新刊で、鳥取県でがんなどの末期患者のホスピス
「野の花診療所」を開設されている徳永進医師と詩人谷川俊太郎
さんが、臨床の現場で徳永先生が携わる様々な死のあり方をめぐり、
ご両人が2年間に渡って受け答えた往復メールを集めた
「詩と死をむすぶもの」です。
私は特に徳永先生が日常的に臨床で体験する、逝く人と看取る人の
間で交わされるやり取りをもとに「『意味』っていったい何ですか?」
と尋ね、谷川さんがその問いに応答するくだりに最も目を惹かれました。
「『ノンセンスは生きることの手触りを教える』と鶴見俊輔さんは
おっしゃいました。ビッグバンに始まったとされる世界は、
人間が発生するまではただ存在するだけで、その存在に意味は
ありませんでした。その後発生した植物も動物も虫も魚も
世界を意味づけようとはしませんでしたが、人間だけが
どうしたことか、世界にそして自分たちに意味を見出そうとし
始めたのです。人間だけに発達した複雑な脳のおかげで、そこから
生まれた言葉のおかげで・・・と要約してしまっていいのかなあ?
ともあれ無意味はそういう人間以前の、言葉が発明される以前の
世界に、つかの間私たちの感性を開いてくれるのではないでしょうか。
それを鶴見さんは手触りと言ったのだと思います。手触り、すなわち
頭脳というより身体で、アタマだけの知性というよりカラダ
ぐるみの感性でとらえる世界。そこには言語ではとらえきることの
できない世界がひろがっています。意味以前に存在しているものの
リアリティに無意味は触れるのです。その、意味以前に存在
しているものが今も基本的にこの世界を形成しているとぼくは
考えます。言葉は、意味は人間を世界に開きそこに秩序を与えてくれる
ものですが、ときにはそれは人間を閉じ込めるものにもなり得ます。
ほんとうに深い、切実な人間関係もときに意味を超えて人と人を
むすぶのではないでしょうか。そこにひそむ泣き笑いのような
ユーモアもまたこの世界の大切な手触りで、それは無意味である
からこそ、意味が届かないあの世の入り口になるかもしれません。」
谷川俊太郎・徳永進「詩と死をむすぶもの」朝日新書
信じる人を求め、言葉にならない祈るような思い、けれど声を聴きたい、
少しでも近づき温もりを感じ伝えたい、というもどかしい気持ちもまた、
意味の次元をはるか超えた「生の手触り」なのだ、と思いました。
あと最後に谷川さんがむかし著した「死」をテーマにした詩も
掲載されていました。しみじみしますね。
一瞬は熟れきったとき
永遠となる
言葉は熟れきったとき
沈黙する
果実は熟れきったとき
地に帰る
死を
熟れきった生として
とらえること
さて早くカゼを治して再び走りたいですが、明日はどうかな?!
それでは、おやすみなさいzz...