2008年09月05日
「待つ」ということ
こんばんは。今日は曇り空から時おり小雨が降り落ちる、湿っぽい
一日でした。夏も終わりつつありますが、太陽が出るとまだまだ
暑くて汗だくになってしまいます。夜も寝苦しい日もあって、
体調を崩しやすい時期かもしれませんね、気をつけましょう~。
今日は職場の飲み会があったため、ランニングは完全休養。
昨日走った後、古傷の右足首に少し痛みが出たので、ちょうど
良い休息になりました。今月から月250キロの目標で走りこむ
つもり、明日からまた積み重ねていきたいと思います。
さて全米もとうとう準決勝に進んできましたね。錦織くんが
フェレールにフルセットで勝ちベスト16まできたのも大きな
ニュースでした。月末の有明AIGオープンにも出場予定だそう
ですので、元気な姿をまた見せてほしいと思っています!
今週ある雑誌の書評から面白そうだと思って手に取ったのが、
臨床哲学者の鷲田清一さんが書いた「『待つ』ということ」
という本です。私は性格上せっかちで「待つ」ことがかなり苦手、
自分から迎えに行くほうが気楽なんですよね~。昔から、まんじり
ともせずじっくり待てる人はスゴイ!と思っていました。
この本を読み「待つ」という行為を改めて考え直してみると、、
私たちが成熟するために「待つ」ことはとても大切な要素なのでは
ないか、と思えたので、以下少しだけご紹介しますね。
「待つということにはどこか、年輪を重ねてようやく、といった
ところがありそうだ。痛い想いをいっぱいして、どうすることも
できなくて、時間が経つのをじっと息を殺して待って、じぶんを
空白にしてただ待って、そしてようやくそれをときには忘れることも
できるようになってはじめて、時が解決してくれたと言いうるような
ことも起こって、でもやはり思っていたようにはならなくて、
それであらためて、独りではとうにもならないことと思い定めて、
何かにとはなく祈りながら何事にも期待をかけないようにする、
そんな情けない癖もしっかりついて、でもじっと見るともなく
見つづけることだけは放棄しないで、そのうちじっと見ているだけの
じぶんが哀れになって、瞼を伏せて、やがてここにいるということ
じたいが苦痛になって、それでもじぶんの存在を消すことはできないで・・。
そんな想いを澱のようにため込むなかで、ひとはようやく『待つこと
なく待つ』という姿勢を身につけるのかもしれない。
年輪とはそういうことかとおもう。
意のままにならないもの、偶然に翻弄されるもの、じぶんを超えたもの、
じぶんの力ではどうにもならないもの、それに対してはただ受け身で
いるしかないもの、いたずらに動くことなくただそこにじっとして
いるしかないもの。そういうものにふれてしまい、それでも『期待』や
『希い』や『祈り』を込めなおし、幾度となくくりかえされるそれへの
断念のなかでもそれを手放すことなくいること、おそらくはそこに、
<待つ>ということがなりたつ。
(中略)
死の訪れを静かに待つひと、恋文の返事をじりじりと待つひと、バスの
到着をいまかいまかと待つひと、合格発表を心細く待つひと、故国へ
帰還する日を心待ちにするひと、刑期明けを指折り数えて待つ囚人、
犯行少年の更生をじっと見守るひと、一年間一日も欠かさず張り込みを
した刑事、ウエイター、棋士、釣り師といった文字どおり<待つ>を
仕事にするひと・・。そして、そのひとたちがたぶん例外なしにくぐり
抜けてきた<待つ>のさまざまな局面。待ちこがれ、待ちかまえ、
待ちわび、待ち遠しくて、待ち伏せ、待ちかね、待ちあぐね、待ち
くたびれて、ときに待ちきれなく、ときに待ち明かし、待ちつくし、
やがて待ちおおせぬまま・・。<待つ>のその時間に発酵した何か、
ついに待ちぼうけをくらうだけに終わっても、それによって待ちびとは、
<意味>を超えた場所に出る、その可能性に触れたはずだ。」
鷲田清一「『待つ』ということ」角川選書
期待や希い、祈りを込めながら、時が満ち、機が熟すのを「待つ」
というのは、実は比類なく豊潤な時間であるのかもしれない、と
思いました。ゆったりと焦らず、結果を急がずに楽しみつつ
『待つことなく待』てるようにいつかなりたいものですね。
それでは、もうすぐ週末ですね!おやすみなさいzz...
一日でした。夏も終わりつつありますが、太陽が出るとまだまだ
暑くて汗だくになってしまいます。夜も寝苦しい日もあって、
体調を崩しやすい時期かもしれませんね、気をつけましょう~。
今日は職場の飲み会があったため、ランニングは完全休養。
昨日走った後、古傷の右足首に少し痛みが出たので、ちょうど
良い休息になりました。今月から月250キロの目標で走りこむ
つもり、明日からまた積み重ねていきたいと思います。
さて全米もとうとう準決勝に進んできましたね。錦織くんが
フェレールにフルセットで勝ちベスト16まできたのも大きな
ニュースでした。月末の有明AIGオープンにも出場予定だそう
ですので、元気な姿をまた見せてほしいと思っています!
今週ある雑誌の書評から面白そうだと思って手に取ったのが、
臨床哲学者の鷲田清一さんが書いた「『待つ』ということ」
という本です。私は性格上せっかちで「待つ」ことがかなり苦手、
自分から迎えに行くほうが気楽なんですよね~。昔から、まんじり
ともせずじっくり待てる人はスゴイ!と思っていました。
この本を読み「待つ」という行為を改めて考え直してみると、、
私たちが成熟するために「待つ」ことはとても大切な要素なのでは
ないか、と思えたので、以下少しだけご紹介しますね。
「待つということにはどこか、年輪を重ねてようやく、といった
ところがありそうだ。痛い想いをいっぱいして、どうすることも
できなくて、時間が経つのをじっと息を殺して待って、じぶんを
空白にしてただ待って、そしてようやくそれをときには忘れることも
できるようになってはじめて、時が解決してくれたと言いうるような
ことも起こって、でもやはり思っていたようにはならなくて、
それであらためて、独りではとうにもならないことと思い定めて、
何かにとはなく祈りながら何事にも期待をかけないようにする、
そんな情けない癖もしっかりついて、でもじっと見るともなく
見つづけることだけは放棄しないで、そのうちじっと見ているだけの
じぶんが哀れになって、瞼を伏せて、やがてここにいるということ
じたいが苦痛になって、それでもじぶんの存在を消すことはできないで・・。
そんな想いを澱のようにため込むなかで、ひとはようやく『待つこと
なく待つ』という姿勢を身につけるのかもしれない。
年輪とはそういうことかとおもう。
意のままにならないもの、偶然に翻弄されるもの、じぶんを超えたもの、
じぶんの力ではどうにもならないもの、それに対してはただ受け身で
いるしかないもの、いたずらに動くことなくただそこにじっとして
いるしかないもの。そういうものにふれてしまい、それでも『期待』や
『希い』や『祈り』を込めなおし、幾度となくくりかえされるそれへの
断念のなかでもそれを手放すことなくいること、おそらくはそこに、
<待つ>ということがなりたつ。
(中略)
死の訪れを静かに待つひと、恋文の返事をじりじりと待つひと、バスの
到着をいまかいまかと待つひと、合格発表を心細く待つひと、故国へ
帰還する日を心待ちにするひと、刑期明けを指折り数えて待つ囚人、
犯行少年の更生をじっと見守るひと、一年間一日も欠かさず張り込みを
した刑事、ウエイター、棋士、釣り師といった文字どおり<待つ>を
仕事にするひと・・。そして、そのひとたちがたぶん例外なしにくぐり
抜けてきた<待つ>のさまざまな局面。待ちこがれ、待ちかまえ、
待ちわび、待ち遠しくて、待ち伏せ、待ちかね、待ちあぐね、待ち
くたびれて、ときに待ちきれなく、ときに待ち明かし、待ちつくし、
やがて待ちおおせぬまま・・。<待つ>のその時間に発酵した何か、
ついに待ちぼうけをくらうだけに終わっても、それによって待ちびとは、
<意味>を超えた場所に出る、その可能性に触れたはずだ。」
鷲田清一「『待つ』ということ」角川選書
期待や希い、祈りを込めながら、時が満ち、機が熟すのを「待つ」
というのは、実は比類なく豊潤な時間であるのかもしれない、と
思いました。ゆったりと焦らず、結果を急がずに楽しみつつ
『待つことなく待』てるようにいつかなりたいものですね。
それでは、もうすぐ週末ですね!おやすみなさいzz...